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第一章904号室の異常死体

 異変の予感など、まるでなかった。時刻も、場所も、景観も、いつもと同じであった。

 

 彼女が週始めの仕事を終え、自宅マンションを間近にする東池袋二丁目の交差点に辿り着いた時間は、いつもとほぼ同じ午後六時前後であった。信号待ちで十字路の一角に佇んだ位置も、いつもと変わらぬモミジバスズカケの緑陰であった。

 その大都会の幹線道路に沿う歩道上で、ピンク系ベージュのスーツに身を包んだ彼女は、目の前を行き交う車両の群れが立てる、地響きを聞くともなく聞いている。

 十月下旬を迎え、首都圏の秋気は、一挙に深まっていた。

 ふと、民間衛星テレビの放送日程を思い起こす。プログラムガイドに目を通したのは、先週末のこと。

〈そう、そうね、今夜は確か、ワウワウで『反撥』を放送する。セックス嫌悪症に陥る女性を演じるのがカトリーヌ・ドヌーヴで、監督が…、そう、あのロマン・ポランスキー。ゆっくり映画を見るためには、早めに……〉

 とうに日は落ち、空には薄墨色が満ちている。しかしながら、ビルに囲まれた地表に佇みながら、夜の過ごし方の算段をする彼女は、光の渦の中に浸っているのだ。

 相変わらず、目前に延びる幹線道路では、総身にライトを灯した車両が、引きも切らず行き交っている。その道路沿いに立ち並ぶビルは、ガラス窓から、外廊下から、青白い光や薄紅の光を放っている。一階部分に軒を連ねる店舗は、ウインドー照明から、ネオンサインから、五色の光彩を輝かせて、客を誘っている。あちこちの軒先に置かれた自動販売機も、派手やかな電光飾で、アダルトグッズ通販を浮かび上がらせている。

 

 今の時刻なら、埼玉の実家は街灯の薄明かりの下に、うら寂しい雰囲気を漂わせて沈んでいることだろう。

 都心の会社に勤める彼女は、週末を埼玉県志木市の外れにあるクレジットカード現金化で過ごし、週日を東京都区内の分譲マンションで送っている。片道一時間近く通勤時間を節約できるのが魅力で、もう一年以上続けているライフスタイルである。

 いまだに、違和感は拭えていない。彼女の違和感とは、月曜日の朝、バスと電車を乗り継いで上京してくる度、大都会に覚える感じ。

 実家の周囲には畑が広がり、程近い河川敷は、絶好の散歩コースになっている。会社がある都心や、マンションがある副都心には、大地を意識できる場所などない。気付くのは、建物の密集、人の群生、音の洪水、そして夜の光の氾濫。父母の耳目を驚かせるほど、賑やかで明るい。首都圏内でも、郊外と都会地の落差は、思いの外、大きい。

 

 実家で過ごした土日が足早に去り、また巡って来た月曜日も、残すところ六時間。夜は陰影に覆われるベッドタウンから、本当の意味の暗闇がない都心部に戻って来ていた彼女は、信号機による少々長い足止めを持て余した。

 車道越しに、反対側の歩道を行き来する人達に合わせていた視線を、自分の博多直送もつ鍋へ流し、上階へと上向ける。

 その何気なく見上げた両目が見張られ、訝る目に一変した。

<あれ? ど〜うしたのかしら>

 建物の趣が、いつもと違う。薄墨色の夜空を背にした最上階の左端、彼女の一人住まいの居室が明るく輝いているという、あるまじき一事で。

 首をわずかに右へ傾け、息を止めて思案する。電灯を消し忘れたまま家を空けていた、とは到底考えられない。そんな不手際は、これまで一度も、しでかしていない。彼女は目に力を込めて、建物の周囲に視線を走らせる。

 間違いはない。横断歩道の向こう正面に建つ十二、三階建てのビルから、右へ二軒目、薄ピンク色の外装を施した九階建ての構えは、帰ろうとしているマンションに相違あるはずはなかった。

 一階の貸店舗に入っているレンタルビデオショップは、内部の天井に張り巡らせた照明を光々と灯して営業中。二階から上には、道路側に張り出したバルコニーが整然と並び、ガラス窓は明暗を分けて折り重なっている。九階に目を凝らすと、四つ並んだ住居の中で、左右の端が明るんで人の所在を告げている。だが、左の角部屋の所有者で唯一の入居者は、道路を挟んだ地上から怪訝な面持ちで見上げている彼女なのである。

 白いレースのカーテンを透かして、蛍光灯の青みがかった白光を瞬かせている904号室の中は、どうなっているのだろうか。

 万が一、消し忘れて外出したのだとしたら、先週の金曜日の朝から電気をつけっ放しということになる。

<私は、それほどそそかっしくないわ>

 自分に言い聞かせるように、胸の内で呟く。週末に家を空ける際には、女主はとりわけ慎重に構えて消灯していた。ガスの元栓も閉めるし、窓や玄関の施錠にも気を付けている。

 その時、路面を疾駆していた車輪の音が消え、目の前の現実に返った。すでに、信号機のシグナルが、青に変わっている。車両の縦列が、歩行者に道を譲っている。

 横断歩道へ踏み出し、反対側の歩道へ渡ると、モミジバスズカケの街路樹を右に見ながら進む。擦れ違う人や自転車は、彼女の眼中にない。ビデオラックの並ぶレンタルショップ前を足早に過ぎて、左に折れ、マンション正面の敷地に配された植え込みを通り抜ける。

 体をぶつけるようにして、両開きの玄関ドアを押し開き、エントランスホールに入った。

 人気はない。左手に構える管理室の窓には、ロールカーテンが下りている。日勤の管理員は、夕方五時に帰ったのだろう。一瞬、その容姿が彼女の脳裏に浮かぶ。小柄で物静かな初老の男だが、推し量るところ、決して懦夫ではない。

<管理人さんに、部屋まで付いてきてもらえれば心強かったのに …>。

 硬い表情で、右肩に吊したショルダーストラップ付きのハンドバッグから、キーホルダーを取り出す。鍵の束から、差し込み部分の左右両方にギザギザの山を持つキーを指先に挟むと、壁に設置された金属製の操作盤に差し込み、右に回転させる。

 オートロックが解除された。

「ピッ、ピッー、ピッ、ピッー」

 電子音の響きに、強化ガラス製の自動ドアが始動する鈍い音がかぶさり、エレベーターホールへの進路が開いた。防犯対策の一環として、共同玄関にオートロックシステムを採用するマンションが急増中で、部外者の内部への立ち入りは、確実に制限されているのだ。

 奥口を潜り、左手の集合郵便受けに歩を運ぶ。腰を屈め、取り出し口のダイヤルを指先に挟んで暗証番号を回し始める、その操作の手がぴたっと凍り付いた。

 背中に感じる、動く人の気配。身を硬くしながら、顔を振り向ける。

 小さく息を吐き、胸を撫で下ろす。宅配ピザ店のユニホームを着た若者が、配達を済ませて外に出ていくところだった。この街では、有り触れた擦れ違いにすぎない。

 エレベーターは、一階に止まっていた。ボタン操作で金属製の扉が自動的に開閉し、低い機械音を響かせながら、最上階を目指して上昇していく。

 九階の北に面した外廊下は、冷え冷えとしていた。一番奥の自室へ向かって、防風スクリーンが設備された通路を進んでいく。常夜灯の弱い光が、足元を照らす。

「カツ、カツ、カツ、カツ」

 高く、忙しなく響き渡るハイヒールの靴音が、背後から付いてくる。

「カツ、カツ、カツ…」

 間近に、904号室の表札が認められた。

『坂本』

 パソコンのまだ新しい印字は、彼女、つまり坂本律子が去年の秋、一人暮らしの住居に掲げたものに相違なかった。

 黒く分厚い鉄扉が、坂本律子の行く手に立ち塞がっている。

 マンション手前の交差点から、取り急いで自室へと辿り着いたが、玄関ドアを前にして考えあぐねる。少なからず臆してもいる。

 室内の明かりは、零れ出ていない。金属製の面格子で外廊下から防護された寝室内は、型板ガラスと厚手のカーテンを隔てて暗く、静まっている。電気が灯っているのは、バルコニーに面した奥の二部屋、リビングキッチンと和室だけらしい。

 ドアを開ける決心は、まだ付かない。危険人物が入り込んでいる、という最悪の事態が頭に過って、不安をいや増す。外へ引き返して、電話ボックスから部屋の電話を鳴らし、侵入者の有無を確かめたほうがよいのでは……。

 幸い、悲観的な予測を払い除けるのに十分な材料を、彼女は持ち合わせていた。建物の共同玄関が二十四時間、ピッキング不可能なオートロックで施錠されているのは、何より心強い。小一時間前までは、管理員も人の出入りに目を配っていただろう。楽観的に考えれば、単に電灯を消し忘れただけかもしれないし、実家には合い鍵を置いてあるから、母親か弟達の誰かが急用で訪ねてきたのかもしれない。先例はなくても、可能性はある。こんなときにさすがにアダルトビデオは見てられない、でもまだ見終わっていない山積みで弟からは裏DVDを貸してくれと急かされている。こんなモヤモヤした日は博多に行ってハプニングバーでハプニング!

 律子は漠然とした不安を追い払い、ようやく覚悟を決めた。自分の部屋に入るのに、びびる必要はない。入らなければ、何もわからない。強まっていく冷え込みが、背中を後押しした。

 ノブを握り、回転させ、手前に引き寄せる。ドアは開かない。

<考えすぎかしら>

 安堵の一息を吐くと、再びハンドバッグをまさぐり、キーホルダーを取り出す。円筒形の錠前は、ノブの上に取り付けられている。その中心部にある横一文字の裂け目、長さ一センチほどの鍵穴に、先刻と同じキーを差し入れ、時計回りに四十五度回した。指先に、錠前内部のシリンダーが回転する手応えを感じ、耳に、錠前と接続している金属製の閂 が動く小さな音を聞いた。

 二LDK、約十六坪の住居への進路が開かれた。

 

 内玄関には、奥向きの明かりが淡く射し込んで、薄暗くなっていた。玄関ドアのシリンダー錠を内側からロックし、スイッチ操作で内玄関と中廊下に点灯する。明るんだ瞬間、塩ビタイル敷きの三和土に落とした目が、置かれている異物に釘付けとなった。

 紳士靴…。女物のハイヒールやサンダルの隣に、きちんと揃えて並べられた一足の黒い革靴…。一人暮らしの生活空間に、断りもなく割り込んでいる男物が、重苦しい気分を一挙に呼び込んだ。

 楽観的な推定の一つは、たちまち崩れ落ちた。唯一つ残ったのは、弟達か父親が上り込んでいること。

<まさか、父さんが来るはずはないし>

 律子の頭の隅に、脳梗塞の後遺症で会話も身のこなしも、ままならない老父の容姿が浮かび、すぐ消え去る。

 廊下の向こうに、ドアを開け放っているリビングキッチンの一部が見渡せるが、人影は認められない。

「誰? 誰なの?」

 不吉な暗示を振り払うように、三和土に突っ立ったまま、声を出して誰何した。

 反応はない。待ち構えても、返事はもちろん、物音一つ聞こえてこない。奥の部屋は、気味悪く静まり返っている。

 足元を見回すと、入室している人間が、来客用のスリッパを使った裏DVDはなかった。常用しているスリッパに履き替え、五感を張り詰め、カーペット敷きの廊下に踏み入る。もう引き返すつもりはない。すべてを詳らかにしなければならない。

「忠 なの? 実 なの? 誰?」

 問い質す声が尖った。口元をぎゅうっと引き締め、注意深く一歩、一歩を進めていく。右手の寝室、左手の洗面室とトイレのドアは、いつものとおりに閉まっている。

 リビングキッチンに至った。蛍光灯がついていることを措いて、変わった形跡は外にない。振り返って、対面カウンター越しに見通す台所にも、別状はなさそうだ。

 ただし、右手に構える和室との間を仕切る両開きの襖が、閉じられている。合わせ目はぴっちりしておらず、わずかな透き間から細長く区切られた光線が流れ出し、置き炬燵の一部と青畳が覗き見える。

 襖の片側を開け放して出掛けるのが、律子の常だ。

 留守宅に灯された電灯…。玄関に脱ぎ置かれた紳士靴…。建具で塞がれた和室…。異状はすべて動かしがたい事実で、もう、自分以外の人間の作為を否定することはできない。不気味な沈黙を守っている相手が、次の間に潜んでいる可能性も打ち消すことはできない。

 律子は、左胸奥に締め付けられる感覚を覚えた。喉も息苦しい。焦心が募っていく。

 また考えあぐねたら、怯む気持ちが強まるばかりだったろう。しかし、素早く行動するほうを選んだ。正体を突き止めなければならない。相手は、血を分けた弟かもしれないのだ。

 ハンドバッグと数日分の新聞類をダイニングテーブルに置くと、自らを鼓舞して襖の引き手に指を掛けた。

 マンションの和室内が、律子の視界に入った。心の準備は整えていたのだが、すぐには、現出している事態が飲み込めない。敷居の前に突っ立ったまま、我が目を疑う。

 蛍光灯に隈なく照らされた六畳間に、乱れた様子はなかった。二面の明かり障子と押し入れの戸は、閉め切られている。木製コーナーラックや大型テレビは、いつもの場所に据えられている。見慣れた掛け時計や気に入りの油絵は、所定の位置に掛かっている。

 理解の外なのは、中央に置かれた炬燵に両足を突っ込んだ形で寝ている中年男なのだ。座布団を枕代わりにして、掛け布団の中で仰向けに臥せっている。

 ノーネクタイ、濃い色のブレザーと装いはラフで、深い彫り、縦皺を刻んだ眉間、頑丈そうな顎を備えた寝顔は、がさつで、気難しいイメージを発散している。面相は皮膚の張りを失った中高年に相違ないが、頭髪に白い物は交じっていない。

 顔見知りでも、まして顔なじみでもなかった。律子にとって、全く見知らぬ人物だった。しばし記憶を手繰ってみる。我が物顔で部屋を占有している男に、一面識もない事実は微塵も揺らがない。

 泥棒? 変質者? それとも……。何者であるかを見抜こうと頭を回転させても、結論が導き出されるわけはなかった。軽い近視の律子は、眼下の相手に鋭く問い詰めた。

「誰よ、あなた」

 答える気配がない。身じろぐ気配も皆無。

「失礼な…」

 荒立つ気に駆られ、敷居を跨いで畳に跪く。

 だが、男を揺り起こすまでもなかった。間近に見下ろすと、顔はやや赤褐色を帯び、生気を失っている。寝息ばかりか、息遣いも感じられない。睫もぴくりとも動かず、表情が木石のように固定している。すでに、事切れているのは明らかだった。

「イヤーー」

 背筋に走る悪寒とともに、律子のほうも色を失った。腰が砕け、後ろ手で体を支える。四肢を反転させて何とか起き上がり、隣室への退避を図る。

「ガタ、ガタ、ガタン…、ガタ、ガターン」

 ダイニングテーブルが立てる激しい音を耳にしながら、和室から最も離れた椅子に、腰を滑り込ませた。

 ピンク系ベージュ色のスカートをまくり上げ、痛む右膝に手を当てる。テーブルの脚に、打ち付けてしまったのだ。荒い息がなかなか静まらない。息を吸い込むばかりで、吐き出すことを彼女は忘れている。

 是非もない。変哲もなく過ぎ去ろうとしていた一日が、闖入者によって大変な凶日に様変わりしてしまったのである。映画鑑賞の目算など、とうに念頭から吹っ飛んでいた。

 緊急事態を収拾する手段は、一つしか思い浮かばなかった。

<警察、そう警察。警察に連絡しなければ…>

 とにかく、警官達の手で、得体が知れない男を連れていってほしい。一刻も早く、馬の骨の死体と一緒にいる気味悪さから解放してほしい。混乱した頭に去来するのは、それだけだった。

 意思を固めたところで、はたと行き詰まった。

<電話を、どうしよう?>

 一一〇番通報に必要な電話機は、和室に置いてあった。入室を阻むように横たわっている死体が、萎え掛かった気力を更に挫けさせる。

「最悪ね。最低よ」

 和室を一瞥しながら、声を上げて、重ねての悲運を嘆いた。

 その独り言が、律子の胸から息を吐き出させ、多少の落ち着きを取り戻させ、次の行動を促した。かつて持っていた携帯電話は手放したし、電話ボックスは近所にない。和室の電話機を持ち出すほうが、手っ取り早いのだ、と。

 人間、一度、逃げ出せば、際限なく逃げ続けなければならない。どこかで、踏み止まらねばならない。自分では、はっきり意識していないが、それが彼女のバックボーンになっていた。人間の名前には、その人の生き方や性格に微妙な影響を与える力があるのではないか。文字には、言霊が宿り、名前には、暗示力や誘導力が秘められているのではないか。親から『律子』と名付けられた彼女は、物心ついた頃から、背筋を真っ直ぐに正し、自分自身を律してきた人だった。

 

 目下の悲運に際しても、律子は体を動かすことで、迷う心を振り払った。椅子から腰を上げ、竦む足を、流れる膝を意志で前進させて、和室の畳を踏み締めた。右脚の痛みが治まらないために余計、足に力が入らないのが、もどかしい。侵入者の死に顔を見ないように意識すると、かえって視界に絡まってきて、背中にざわつくような異常感を覚えた。

 男の枕元を横切って電話機に辿り着くと、壁面に穿たれた電話アウトレットからコードごと引き抜いて、取って返す。

 和室を抜け出ると境の襖を閉め、先刻、動転して脱ぎ忘れたスリッパを履き直して、台所に面する対面カウンターへ進んだ。木製の細長い台の上に電話機を据え、リビングキッチンの壁に設けられているアウトレットに、モジュラー・プラグを差し込みに掛かる。その指先が小刻みに震え、電話回線の接続に意外なほど手間取った。

 リセットした電話機に目を落とした後、律子は送・受話器を持ち上げた。

「そう…ね、その前に」

 新たな考えが浮かんで、いったん受話器を元に戻し、ダイヤルメモに登録済みの番号をプッシュする。

「ツッツ、ツッツ、ツッツ。プ、ププーー、プ、ププー」

 電話番号を自動的に送信する忙しない音が、受話器を当てた鼓膜を刺激する。続いて、相手方の呼び出し音が鳴り始める。

「ル・ルー、ル・ルー」

 三回、四回、五回……。電話線を通じて遠くから耳に届く響きが、いつになく間延びしているように感じられる。焦れながら、息を詰めて待つ。

「チャッ」

 ようやく、相手方の受話器が外された。律子の胸から、長い息が漏れ出た。電話の向こうで、聞き慣れた声が答えた。

「はい、坂本です」

 実家の母親のやや甲高い声だ。

「母さん、私よ」

「あ、あ〜、律子ちゃん…」

 悠長な物言いを遮って、娘は焦り気味に訴えた。

「こっちで、大変なことが起こったのよ。男が、知らない男の人が死んでいるのよ」

「男の人が死んでいる? あんた、どこでよ?」

 一段と甲走った声が、聞き返してくる。

「私のマンション。会社から帰ってきたら、部屋に明かりがついていて、おかしいと思ったのよね。部屋に入ってみたら、案の定で、見たこともない、おじさんが、炬燵の中で死んでいたのよ。本当に、とんでもないことが起こってしまったのよ」

「まあ、恐ろしい…。赤の他人が、マンションで殺されているっていうの?」

 言葉尻が震えているのが、聞き取れた。

「そうじゃないのよ。よくはわからないけど、殺されたのじゃなくて、病死しているみたいなの」

 説明する律子の脳裏に、男の、おぞましい悪相が蘇った。男は確かに、他人に殺されたのでも、自殺したのでもなく、突然死したようだった。

「どちらにしても、恐ろしいことね。あんた、ちゃんと戸締まりしてなかったのじゃないの? だから、赤の他人が入り込ん…」

「そんなことは、ない。ちゃんと、気を付けているわよ」

 母親の脱線に、取り合っている場合ではない。娘は早口で、用件を切り出した。

「それより、母さん、実は帰っていないかしら? 家にいるなら、すぐ私の所へ来てもらいたいのよ」

「あいにく、今夜は遅くなるってね、さっき電話があったばかりなのよ。そうだわ、そうだわよ」

「何が、そうなの?」

「忠ちゃんよ。忠ちゃんに、来てもらったらどう?」

「ええ、そうね。そうするわ」

 言い終わる前に、心配げな高い声が被さった。

「警察には、もう連絡したの?」

「いや、まだよ。忠が来てくれたら、すぐ連絡するつもりよ」

「私は父さんがいるから行けないけど、後で必ず電話をちょうだいね。とても心配だから…」

「ええ、もちろんするわ。それじゃ、後で」

 

 実家の母親との通話を早々に打ち切ると、律子はダイヤルメモに従って、次弟の忠が板橋区内に一人で暮らすアパートの電話を鳴らした。

 一回、呼び出し音が、響いただけだった。即座に、抑揚のない応答が、受話器を介して返ってきた。

「はい、もしもし」

「私よ、律子」

「ああ、律姉ちゃん」

「お願いがあるのだけど、忠、びっくりしないで、私の話を聞いてよ」

「どうしたの? そんなに切羽詰まった声で」

 そう言う次弟の声は、地の底から届いてくるかのように低く、小さくしか聞き取れない。当人の話し方によるのだろうか。いや、たぶん、電話回線の具合によるのだろう。

 姉は意識して、自らの話し声を五デシベル分、大きくした。

「私のね、マンションの部屋で死人が出たのよ」

「死人が出たって、誰? 知り合い?」

「いいえ、見掛けたこともない、赤の他人。六時頃、マンションに帰ってきて発見したのだけれどね、その男は留守の間に入り込み、何かの原因があって急死してしまったみたいなのよ」

「ええー、本当かよ〜、茨城のエステに行けないじゃないか。冗談言ってるんだろう、律姉ちゃん」

 相変わず回線の音質は芳しくないが、耳に伝わる忠の声が、急に大きくなった。

「本当の話よ」

「そいつ、空き巣狙いの泥棒かな?」

「まだ、わからない…。部屋には、荒らされた様子がないみたいだし…」

「ふ〜ん」

「それはともかく、お願いというのはね、私の所へ急いで来てほしいのよ」

「え〜、嫌だよ。俺、そんな所へ行くの」

 忠の口調が、また変わった。ひどく狼狽している。

「何、情けないこと言ってんのよ。姉が困っているというのに、助けてくれないの」

「け、警察へ連絡したら、いいじゃないか」

「もちろん、するわ。するけど、その前に誰かに、そばにいてもらいたいのよ。実は帰りが遅くなると言うし、わかるわね」

「嫌だなあ、俺。急に、そんなこと、頼まれてもなあ…」

「四の五の言ってないで、とにかく、急いで来てよ!」

 送話器に向かって、怒気を含んだ声をぶつけた。しばらく間を置いて、溜め息とともに弟が承諾した。

「わかったよ〜。すぐ行くよ」

「よろしくね」

 電話の奥から届いた頼りなげな、喘ぐような声が、律子を苛立たせた。

「全く情けない男ね、忠は。この意気地なし」

 受話器を架台に戻すと、苦口を呟きながら、ひとときの休息を求めて、椅子に座り直した。

 

 五歳年下で三十三歳の坂本忠は、四年制の大学を中退して以来、肉体労働のフリーターを続けている。東京都内の貸しアパートに住むようになった二十代後半からは、年に一、二度しか実家に顔出ししない。律子とも、久方振りの再会になる。

 律子は、女二人、男三人の五人姉弟の長子。三十八歳を迎えた自身を始め、三十代の弟達もすべて独身で、妹の貴子だけが縁付いて、北陸の小都市で三十五歳の晩秋を送っている。

 長弟で三十七歳の茂は、埼玉県に本社を構える化学工業会社の営業所所長として、新潟県に赴任中。しっかり者で、親への毎月の仕送りを欠かさない。末弟で三十一歳になった実は、埼玉の実家から東京都内の不動産屋に通勤している。最近ハワイで法人設立したらしくレンタルサーバー業を営むらしい。

 高収入を得ている律子や茂、夏冬のボーナスを確保している実と比べて、フリーターを通している忠の収入は不安定だった。当然ながら、両親の風当たりが最も強く、彼のほうも引け目を感じているらしい。

 一念発起して天職に就かぬまま安易な生活に流されている間に、親や姉弟と疎遠になり、最近は性格まで拗けてきたように感じられる。何かにつけて、殊更めいて、人の言動に反発するようになったのだ。親しく交わる友人もなく、スポーツや旅行の趣味もなく、アパートの一室でテレビゲームに熱中しているらしい。

 すべては、生来の小心な性格に由来しているのではないか。不器用にしか生きられない弟を、姉として律子は案じていた。

 

 そんな弟でも、自立して生計を立てている社会人に変わりはない。あれやこれや、理屈を並べたがる一人前の男に変わりはない。いざという時には、頼りになるはずである。律子は忠の芳情に感謝し、彼の到着を待ち望んだ。もつ鍋を食べながら。

 要する時間は、四十分くらいか。時計の分針が三分の二回転すれば、霊安室に急変してしまった居室の沈黙は破られ、やがて警察官の手によって私的な住空間に戻されるだろう。

 椅子から上半身を振り向けて、リビングキッチンの掛け時計に視線を走らせた。六時四十二分。七時二十分か、遅くとも七時半には、弟が姿を見せてくれることが予測された。